10月6日付日経新聞夕刊の1面コラム『あすへの話題』より。
今日の執筆者は楠田枝里子さん。彼女はかつて「とても消極的でのろまな子供」で、「何をするにもひとより時間がかか」っていたらしい。給食を食べるのも遅くて、時間内に食事を終えることできなかったのだが、「小学校五年生のときの担任の西村先生」が、途中で片付けられようとするところを「まだ残っているんだったら、食べてていいよ」と声をかけてくれた。この先生から、自分のペースで最後まで力を尽くすことを学んだ、という、“ちょっといい話”であった。
読みながら、私はふたつのキーワードに慄然とした。
それは『小学校の担任の西村先生』と『給食』。
私も(「も」って言うなよ・笑)昔から愚図な子どもで、食べるのも遅かった。給食も、時間内に食べ終えることができず、途中で片付けられてしまうことこそなかったが、休み時間になっても食べ続け、5時間目が始まる直前になってようやく、ひとりで食器を給食室に返しにいくことはしょっちゅうであった。
小学校4年生のときの担任の西村先生は、そんな私に強い口調でこう言った。
「集団生活ってもんを、ちょっとは考えなさい!」
楠田さんの担任の西村先生とは、エライ違いである。(勿論、同姓の別人である。1960~70年代に小学校教師をしていた西村さんは、それこそ全国に何百人もいるだろう。)
けれどもそのひとことで、子ども心をグッサリ傷つけられた私は、中学校に上がる頃にはクラスの女子で1、2を争う早食いになっていた。しかも、食べ物を滅多に残さない習慣もついた。
しかし、肝心の集団生活のほうは、どこに行ってもどの集団の中でもうまく溶け込めず、常に孤立していた。そして、そのまま、現在に至る。
人生、誰のどんな言葉が、どのように影響するかわからない。
と、いうより、誰の言葉を、自分にどのように役立てることができるかが、人生において華やかに成功するか凡庸な一般大衆として生きるか(別に、彼女が羨ましいとも自分が不幸せだとも思わないけどね)の分かれ目になるのかも…しれない。