もう何度も書いていることだけれど。
雛祭りには、良い思い出がない。
実家には、母方の祖母が買ってくれたという七段飾りがある。子どもの頃は、毎年2月になると、母が、早く雛飾りを出せ、と父をせっつき、その度に父は不機嫌になった。そして日曜日の午後から(当時は土曜休みではなかった)作業をはじめたのだが、(本心はわからないけれど)とても面倒臭そうで、如何にも嫌々やっているように、子どもの私からは見えた。何故そう思ったかというと、雛人形が次々箱から出されるのが嬉しくて、はしゃいだり道具を触ってみたり、父の傍をうろちょろすると「うるさいッ!」と怒鳴られたからだ。怒るとすぐに手が出る父だったから、そこでその年の雛祭りの楽しい気分は全部おしまいになってしまい、3月になって人形が仕舞われるまで、触ったら殴られる煩わしい壊れ物が部屋を占拠している状態が続いただけだった。
母は飾るのも仕舞うのも全て父に押し付けていた。説明書通りに組み立てたり並べたりすることが、物凄く苦手だったからだ。やろうと思っても能力的に無理なのか、単に面倒なことはやりたくなかっただけなのかはわからないが、父と母が協力して作業する、ということは、不可能だったに違いない。そういう両親だった。
母が雛祭りに際して私にしてくれたことは、父をせっつく以外には、高額な品を買ってもらったのだから有難く思え、他の子はこんなに立派なものは持っていない、お前は恵まれているのだから感謝しろ、と威張り散らすこと、人形の1体を取り上げて、これはお前が幼い頃に壊したのだ、と詰ることくらいだった。
『サザエさん』の一場面みたいに、晴れ着を着せてもらったり白酒が出たり、近所の子を集めてちょっとしたお茶会を開いたり、というのには憧れたものだけれど、あんなことやってたご家庭って、昭和40~50年代の日本にどれくらいいたんでしょうね。3月3日って概ね平日だしな。
雛人形は、桃の節句を過ぎたらなるべく早く片付けないと、娘が嫁き(いき)遅れる、という迷信というか言い伝えがあるけれど、それに関しては母は無関心で、片付けるには大気が乾燥していないと湿気が籠って人形に黴が生える、という、基本は科学的知識に欠けた出鱈目理論を展開する人間なのだが稀に唱えることがある合理的な根拠で、そして勿論自分ではしようとしないので、日曜祝日が晴れなければ仕舞われることはなく、4月に入っても雛人形は飾られっぱなし、ということはよくあった。
私が結婚した年齢が日本人女性平均より高かったのは、決してその所為ではない。
さて、夫は行事食の好きなひとで、クリスマスや家族の誕生日にはご馳走をつくるし、近年ではお節料理もつくるようになった。
そういう、特別な食べ物は夫の“係り”だが、桃の節句のちらし寿司だけは私がつくる。平日だし女の子のお祭りだし。つくるといっても、寿司の部分は“素”を使うので簡単である。
雛人形は、上記の思い出もあって、両親の、長女初節句の為にガラスケース入りの親王飾りを買ってやろうとの申し出を断り、最初の年はお菓子のオマケの小さな籠飾り、翌年は娘が保育園でつくったーーこの園では、毎年シールや色紙を使って子どもに“雛人形”をつくらせていた。1歳の頃は厚紙にシールを貼るだけだったものが、年々手先が器用になり凝った工作が出来るようになって、成長の跡が伺えるのでとても楽しみだったーーものと、私がデパートなどで買い求めた雛人形を並べて飾った。
雛飾りは工作と買ったものと、毎年2組ずつ、次女が産まれてからは3組ずつ増えていき、次女の卒園とともに増えなくなったが、その全てを本棚の上段に並べていた(密みつだった)。が、流石に中高生女子にとっては園児時代の工作など黒歴史だろうと思い、今年からは買ったものだけにした。
特に雛祭りの話をするでなく、娘たちは黙々とちらし寿司をぱくつき蛤汁を啜り、縁起物だからと出した甘酒に悪態をつき、菱餅を口に放り込んで、今年の雛祭りは終了。
お年頃な長女は、早く雛人形を片付けろとせっつくだろうが、私が選んだなかでも特に、ガラス製の親王飾りと陶器の五人飾りが可愛くて気に入っているので、もうしばらく愛でていたい。